言葉にすると、意識しだすと気になるものってありませんか?
「あいつ、お前のこと好きらしいぜ」
「そんなところにほくろがあるんだ」
「あなたの家の近くに、道祖神があるよね」
今までも存在していたものなのに、いざ言葉にされると、意識しだすと、気になってしまう。
けれど、可視化と許容は違うな〜と最近思ったので今回はそんなお話。
多様性を認めないことを認める社会
先ほどのセリフ、こんな続きがあったらどう思いますか?
「いい子だから、付き合っちゃえよ!」
「そのほくろはモテないから、取ったほうがよくない?」
「近いのにちゃんと見たことないなんて、もったいないよ!」
なんか、うるせー!って気持ちになりませんか?ならない?もう少し分かりやすく大雑把に例を挙げます。
「愛って素晴らしいよね!」
「みんな仲良しが一番だよね!」
「だから、そうできない人って排除すべきだよね!」
多様性を押し売りするメディアになっていないか?
現代社会のコミュニティやメディアでは「共感」がキーワードになっています。「分かる」「私も」がシェアを呼び、専門性よりも「共感性」が重視される時代。
「信州のスキマを好きで埋める」をキャッチコピーとした「Skima信州」も、その価値観に大きく影響を受けている気がします。観光情報などを、極めて主観的な「好き」の視点で発信すること。専門性よりも共感性が重視されていることもポイント(もちろん専門性を軽視しているつもりはありませんが!)。
「共感」をキーワードにひとつ問題視されているのは「多様性を認めない人の多様性を認めない」問題。こんなスキマなスポットが好きな人もいるんですよ!だから私たちの好きなものを認めてください!だって私たちが好きなんだから!メジャーなスポットばかり行っている人は悪!この価値観を認めない人は認めない!なんて。
多様性を押し売りするメディアになっていないか?と自問しました。
多様性の共生とは?
スキマのライターメンバーなどの様子を見ていると、必ずしも同じ「好き」に共感し合っている訳ではないことに気がつきました。好きなものも、グッとくるポイントもみなさん割と一致していないんですね。けれど「誰かが好きであること」を認め合っている。
「こういうのが好きな人もいるんだ」「こんな価値観があるのか」と認識し、そのまま認める。それ以上でも、以下でもない。そんなゆるっと包括された空気が、メディアにも反映されているのかもしれません。
人のLikeを可視化する
コンセプトについて、とある方に「Goodではなく、Likeを発信するメディア」だと評していただきました。
良し悪しも好き嫌いも、主観です。ただ異なるのは、良いか悪いかについて議論することはできても、好きか嫌いかは議論の余地がないことです。
「これは良いものです」と言われれば「いや、そんなことはない」と反論もできますが「これが好きです」と言われても「いや、あなたは好きじゃないはずだ」なんて思わないはず。
こうして「好き」の視点でコンテンツを可視化するだけの記事は、なんの問題提起もない、いわゆるバズも炎上もないメディアになります。賛否両論あるテーマを真剣に投げかける人たちから見たら、生ぬるい、現代的な素人のメディアに見えるかもしれません。
けれど今のところ、Skima信州は「好き」の可視化とアーカイブ化を続けていく予定です。
今後は「好き」の言語化を追求したい
宣言したはいいものの、私の中では「そもそも好きとは何なのか問題」が提起されています。
「私はこれが好きなんです!」を押し売りするのではなく、可視化していこうと決めたところですが、個人の好きにどんな意味があるの?100年後も残したいというけれど、個人の主観の記録してどうするの?
「好き」という言葉は便利です。どんな景色も、美味しいものも、かわいい人も、全て「好き」の一言で片付けることができてしまうから。
ではメディアとして、いつまで経っても変わらない言葉でコンテンツを記録したいと思った時、好きを伝えるもっとたくさんの言葉が必要であると考えます。
なぜ好きなのか?どの部分に惹かれるのか?どんな歴史があり、誰のどんな想いが隠されているのか?
好きの先を思考し、言語化し続けることが、今わたしに足りないものだと。好き好き言っているだけでは、人の心は動きません。動かしたいかといわれると、分からないけど。
ってことでこれからも「多様性の共生と可視化」それから「好きの言語化」を考えていきたいと思います。